中身は、さまざまな絵画の「片目」の部分とこれまたさまざまな絵画の「月」が並べて載っている本なのだが、この序文が好きで結構何度も読んでいる。
発端は僕が一時期「眼球舐め」(舐められる方ね。)に凝った時期があって、絵とはいえずらずらと「目」ばかりが並んだこの本に何か感じるものがあってビジュアル重視で購入したものなのだが・・
よくよく序文を読むと「人の視覚」の成り立ちから始まり、「脳と視覚の関係」「人が天上の月を見つけた理由」などが書かれており、さらに書いた人の思い入れたっぷりの「眼球の魅力」「月の魅力」までもが書かれており
しかしながら、そこに大いなる共感を覚え、やはりこの本は愛読書となっている。
眼球と月といえばきっと多くの人がぱっとイメージするのは映画『アンダルシアの犬』ではないだろうか?
月を雲が横切っていくのとオーバーラップして女性の眼球が剃刀で真っ二つに切られていく・・という衝撃的な冒頭で始まるショートフィルム。(無声だったよな?確か・・何故か軽快な音楽がバックで流れてるんだけどね。)
見るだけでゾクゾクといたなんとも言い難い「恐怖」と「不快」と何故か「エロティシズム」を感じてしまう。
この「エロティシズム」の根拠は、この女性が剃刀で眼球を切られるに至った経緯というのか・・
ショートフィルムなので、そこまでは描かれていないのだけれど、もっと言うならシュールリアリズムに経緯や脈絡なんて無くていいんだけど・・全く抵抗もなく男の持った剃刀を甘んじて受けるそこにこそ犠牲となるものが持つ独特の性的な美を感じてしまう。
まあ、それは程度の差こそあれ加虐、被虐の虜となっている我々には容易に理解できる「エロティシズム」なのだが・・
僕の一番の衝撃はその行為ではなくて、真っ二つに切られた眼球からドロリと流れ落ちるゼリー状の液体。
僕はそこに強い「エロティシズム」を感じてしまう。
言わずもがな、人の眼球というのは常に濡れている。
これほどまでに水を湛えた「むき出しの部位」というのは他にない。
「人の眼球のレンズ前面は体液で出来ており、その後ろは水分を大量に含んだゼラチン質の透明組織で出来ている。」
『眼球譚/月球譚』引用
剃刀で切る事によって、流れ出た涙とは違うゼラチン質が彼女の喜びを表しているようで胸がぎゅうと締め付けられるのだ。
簡単にいえば
「ああ・・こんな事されても喜んでる・・」という感じ。
破壊された目からゼラチン質が流れ落ちる時、彼女も絶頂を迎えているのではないだろうか?という夢想。
月から始まり、眼球ときて「性器」を暗に匂わすというのは、何となくシュールリアリズムにあってもいいかなぁと思えなくもない。
それはイメージ。
「視覚というのは大変に面白いしくみになっていて、目でとらえたすべてが脳に伝わっているにも関わらず、脳はその膨大な情報を必要に応じてピックアップし、処理して組み立て直し「見えている」と認識をするのだ。つまり、我々は脳が欲し指令したものを見ているにすぎない。」
『眼球譚/月球譚』引用
さて、ここに一冊の本がある。
家畜小屋で読もうかどうしようか?と悩んだ末今回はやめておこう・・と本棚に戻した本だ。
『O嬢の物語』(P・レアージュ/訳・澁澤龍彦/発行・河出文庫)
こっちの方面に興味のある人なら一度は手にする本ではないだろうか?
もっとも僕は何かの病気か?と思えるほどの澁澤マニアでもあるので、ことあるごとに手に取っては読みふけってしまう愛読書の一つだ。
しかし、本当に手にしたのはこの本そのものではない。
今回迷ったのは、この本を原作にコミックで描かれたもの。
『O嬢の物語Ⅰ・Ⅱ』(画・Guido Crepax/発行・トレヴィル)
大判の二冊組。一冊2600円の結構な値段がつけられた本。
もっとも洋書なんぞはもっと高いので(英語版のものも持っています。汗)グィドクレパックスの本がこれぐらいで手に入るならまだマシと思えなくもないが・・
この本と『眼球譚/月球譚』を両手に持って悩む首輪をした僕というのも中々面白い姿だ。
家畜が家畜小屋に入るのに右足からか?左足からか?悩んでいるようなものである。
散々悩んで今回は『眼球譚/月球譚』を手にした僕だったが、この本を今回ここへ引き合いに出したのには理由がある。
いまさら『O嬢の物語』の内容については語るべきものはない。
興味があるなら読んで下さいとしかいいようがない。
内容は知らなくても、この原文が外国語、よく知っている人なら「フランス語」で書かれたものである事ぐらいは知っているだろう。
我々が脳内でイメージする時、言葉や文字というのは非常に重要な役割を果たす。
文字の羅列である本は、理解できる文字で書かれてこそ我々の脳内で生き生きと「見る」事が出来るのだ。
この本いいから読んでみて。と渡された本が「英語」なんかで書かれていたりしたら・・
百歩譲って「英語」はどうにか訳せるとしても、「フランス語」あるいは「ドイツ語」「スペイン語」など、自分の理解や労力が及ばない言語で書かれたものだとしたら!!
一気に読む気は半減し、もしかしたら手すらつけないのではないだろうか?
そこにどれだけ興味のひかれる事が書いてあっても、それを訳して自分の中で生き生きと感じる事が出来るようになるまでの道のりは遠い。
その道のりを一気に縮め、日本語という我々馴染みの言語に訳してしまったのが澁澤なのだ。
しかも、澁澤の場合余計な肉付けな一切しない。原文そのまま直訳に近い形で我々に作品を提供してくれる。
これでイメージ出来るかどうか?あるいは澁澤のイメージはどうであるか?などの余計な情報が無い分、我々は勝手なイメージをそこに「見る」事ができる。
それぐらいぶっきらぼうな訳なのだが、何故かそれが「淡々としている」ように思えるから不思議だ。
いや、きっと原文も淡々としているのだ。きっとそうだ・・だって直訳だもん。笑
・・まぁ、それはいいとして・・・
文字というのは文字でしかない。
「あ」は「あ」だし「い」は「い」であって、それ以外の情報は持ち合わせていない。
ただそれが一定の法則を持って「文」として組み立てられ、「文章」として並べられ、「文学」となって我々に届く。
だが、よく見てみるとやはりそこには「文字」しか書かれていない。
目は膨大な量の「文字」だけを脳に送り、脳はそれを必要に応じて組み立て、我々はO嬢を「見る」事が出来る。
しかももっと便利な事に我々は脳の欲した「見たいO嬢の姿だけを見ている」のである。
彼女の髪型、肌の色、質・・そして歩き方、跪き方、口の開け方・・・
彼女の涙も鞭打たれた時の歪んだ顔も
(声は視覚情報ではないので、あえて今回は省きます。)
この本を開けば「貴方の見たいO嬢がそこに居る」
ただの文字の羅列なのに、ああ・・視覚とは何たる奇妙な器官なのだろう。
それをふっと実感したのが『眼球譚/月球譚』の上の一文と、クレパックスのコミックだった。
グィド・クレパックスはイタリアのイラストレーター&コミック作家だ。
代表作は「Valentina」僕も大好きなポップでサイケデリックなのにどこかエロティックでダークな漫画の一つ。
彼が『O嬢の物語』を漫画で発表したのは1975年頃。他にも「毛皮のビーナス」や「ジュスティーヌ」を漫画で発表している。
原作の『O嬢の物語』がフランスで発表されたのが1954年だから、その差・・約21年。
その間にきっと原作はイタリア語に訳され(もしかしたらクレパックスはフランス語も読めたかもしれないけど)彼の目に触れ、彼が欲したO嬢は彼の中で確固たる肉体を得て生き続けていたに違いない。
もちろん、僕の中にも「貴方の中」にもO嬢は本を開きさえすればそこに「見る」事は出来るのだが・・・
クレパックスはその脳内で生きるO嬢を自分の手で平面に描いてしまった。
描けるだけの能力が彼には備わっていた。
クレパックス・・「彼が見たO嬢」を。
ここが凄いなぁと思う。
脳内でイメージされたものを表現出来る人が世の中にどれだけいるのだろう。
だが漫画あるいは絵というのは、文学ほど我々のイメージに対する自由度は持っていない。
それもそのはずだろう。我々はクレパックスが見たO嬢を見ているのだから。
しかし、彼のおかげでO嬢にまつわる様々なものが具体性を帯びた。
「O嬢リング」はあーんな形をしていて、「鉄の環」はこーんな大きなもので、「焼印」は臀部に頂両方に押されたものだったのだ。(知らない人はイメージしてね。イメージ・・笑)
平面上のO嬢は、まだまだ我々に様々な姿を見せてくれるだろう。
我々が欲するままに。
とまぁ・・今回はちょっと小難しい事を書いてみました。
僕が小難しい事を書く、というのは家畜小屋でどうにもならない発情に焦がされている時で・・
まるで性欲を抑えようとして掛け算の九九を必死で唱えている男子中学生のようなものです。笑
たまにはね、こういうのも入れつつ
また飼い主様との日々を綴るブログ記事を楽しんでいただけたら・・と思っています。
ではでは連休も終わりのようですので
こちらも通常に戻るとしますか。
じゃ、またね。